【ムーンスター150周年特別企画 ①】すべての人々の「笑顔」と「しあわせ」のためにひたむきに靴をつくり続けてきた軌跡
2023年10月20日に創業150周年を迎えたムーンスター。ゴム産業の発展により栄えた福岡県久留米市で、創業当初から「顧客に対して優れた製品を提供する“精品主義”」を脈々と受け継ぎ、ひたむきに靴をつくり続けてきた。
生まれて初めて履くファーストシューズ、足の健やかな成長をサポートする子ども靴、アクティブなスクールタイムを足元から支える学校の上履きや運動靴、“厨房”や“病院”など専門職向けのプロユースアイテム、履き心地と快適性にこだわった紳士靴と婦人靴、日本人の足と歩きを徹底的に分析し、開発したウォーキングシューズなど、履く人のことをつねに考え、数々の商品提案を行ってきた。
シューズポストオンラインでは、これまでのムーンスターの歩みと、今後の展望について2度にわたって紹介。今回は同社の150年の歴史と様々な取り組みを振り返る。
つちやたび店~はじめての店
創業者の倉田雲平は1851年に現在の久留米市に誕生。衣服裁縫技術を修得後、足袋師としての修行を経て、1873年に「つちやたび店」を開業する。先祖伝来の屋号「槌屋」の名から製品に「つちやたび」と銘打ち、家紋である「打ち出の小槌」を商標とした。吊り看板には「御誌向御好次第(おあつらえむきおこのみしだい)」と記しており、これは現在のオーダーメイドのこと。この言葉の通り、顧客一人ひとりの足を考えた製品づくりと感謝の気持ちを大切にする姿勢は、着実に評判となり需要が広がっていった。そしてこの言葉に宿る“一人ひとりの顧客に最適な靴をつくる”という想いは、150年後の今もなお受け継がれている。
はじめは夫婦で力を合わせて足袋を仕立てていたが、1894年にドイツ製のミシンを採用したことにより家内工業から工場生産へと拡大。この頃からすでに、従業員養成所を開設するなどして従業員の教育にも力を入れ、“精品主義”を徹底していた。
家内工業から近代工業へ
1908年には久留米市の現敷地に白山工場を建て操業を開始。蒸気力を動力とした織布、漂白、染色の3工場を備え一貫した品質の管理を行う。1910年、第二回産業博覧会で名誉賞金牌を受賞し、大阪市東区に支店も開設。1911年には工場のミシンや裁断機に電力を利用するようになり、普及品である「いろはたび」の製造を開始した。
倉田雲平が業界初の勅定緑綬褒章を受ける。その後「つちやたび合弁会社」設立へ
足袋製造および研究に尽くした倉田雲平は、長きにわたる産業発展への功績により、1914年に足袋業者として初の勅定緑綬褒章をされる。1917年に「つちやたび合弁会社」を設立するも、新社屋を見ることなく67歳で逝去。当時の九州毎日新聞は「足袋王逝去す」と訃報を掲載した。2代目雲平は倉田金蔵が襲名。当時の東京市京橋区長崎町に東京支店を開設した。
ゴム底地下足袋の開発とゴム製品の製造開始
その後、1918年に3代目社長として倉田泰蔵が就任。1920年に取引先のシンガーミシンの支配人が持参したアメリカ製のキャンバスシューズを見て、布とゴム底がゴム糊で貼り付けられることを知り、日本初の地下足袋研究に着手、同時にキャンバスシューズの研究に着手した。1922年には地下足袋の試作に成功し、翌年、貼り付け式地下足袋の生産・販売を開始した。1923年の関東大震災の復旧作業にはこの地下足袋が活用され、やがて全国へと普及していく。
1925年には運動靴(紐付きキャンバスシューズ)やゴム長靴の開発、製造をスタートし、本格的にシューズメーカーとしての歴史が始まった。1927年からは輸出用の「支那靴」、「朝鮮靴」、「クレープ底布靴」、国内向けの児童用「前ゴム靴」、青年訓練用の「編上げ靴」の製造を開始。輸出量が増加しつつあった1928年には、世界中どこでも通用するマークとしてゴム履物に“月と星(ムーンスター)”印を採用した。
つちやたび株式会社設立~輸出の拡大
1931年、「つちやたび株式会社」に組織変更。1932年からは「蹴球靴」「ウーラー靴(満州向け労働靴)」などの製造を開始。1934年には婦人用雨靴も製造し始めた。しかし、輸出市場は関税障壁により困難になり1938年、子会社「国華護謨工業株式会社」を満州に設立、現地製造にふみきる。その後、現地の資源開発事業に着目し工業用ベルトなどの製造を行った。
日華護謨工業株式会社~戦時統制
1937年、軍需指定工場に、翌年には軍管理工場となり、1939年「つちやたび株式会社」から「日華護謨工業株式会社」に社名を変更。第二次世界大戦勃発により、ゴム履物統制令が発令され、学童用と労働用以外のゴム履物が製造中止となった。1945年には本社工場が被爆し、3分の1が消失。終戦後1947年からGHQの民間貿易再開許可により、ハワイへの輸出を再開。化成品では自動車用タイヤなどを製造していた。
日華ゴム株式会社~戦後の復興と発展
「たとえ工場は焼かれても、事業を焼きつくすことはできない」。倉田泰蔵社長は全従業員を励まして復興の第一歩を踏み出す。1949年に「日華ゴム株式会社」と社名を改め、着々と生産設備の整備拡充を進めた。1950年、ゴム工業技術の世界的権威であるフィリップ・T ・ギドレイ博士(アメリカ)と技術顧問契約を結び、アメリカから輸入したジャックコンベアを本社工場に導入。その後、自社設計のジャックコンベアを増設した結果、生産能力は戦前の2倍に達した。
スポーツシューズの発展と活発な広告活動
1950年代にはスポーツシューズが大きく発展。1950年にアジア競技大会出場選手向けランニングシューズを開発し、1951年にはボストンマラソン出場選手向けランニングシューズを開発。1952年にはヘルシンキオリンピックマラソン日本代表選手への商品提供も行った。翌年にはランニングシューズだけでなくバスケットシューズを発売。その後もテニス、ゴルフ、野球、サッカー、登山といった各スポーツへの展開を強化していく。これらの商品はのちにジャガーシリーズと銘打たれ記録的なヒット商品となる。
同時に宣伝活動も活発に実施。1953年、日本ヘリコプター輸送(現全日本空輸)が新たに輸入したヘリコプター2機を借り受け、「月星号」と命名して全国各都市を訪問したほか、1954年には自動車を動く看板として活用し、大型宣伝車3台とサービスカー55台が名古屋で開催された全日本広告連盟主催のアドカーパレードに集結し、2000mの大行進を行った。
1956年にスウェーデン製自動ゴム加硫機を導入し、1957年にはゴム履物のJIS表示許可工場として認定される。この時期に製造された児童用の商品が現在の上履きの原型となったとされている。
南極観測隊員に特殊防寒靴を寄贈
1958年には南極観測隊からの依頼を受けて開発した特殊防寒靴を寄贈した。「保温性・柔軟性・防滑性・耐久性」を実現するため試行錯誤を繰り返した防寒靴は、マイナス50℃の低温でも硬くならない天然ゴムの長靴に、当時の新素材インナーソックスを組み合わせたもので、日本独自の技術と感性により生み出された。
月星ゴム株式会社~革靴の生産を再開
1959年、革靴の生産、販売を再開し、国産初のバルカナイジング・プレス プロセス(加硫圧着方式)による合成ゴム底革靴「VPシューズ」の製造販売を開始。1961年には氏家工場(のちの氏家製靴)を設立し、本格的に革靴の生産をスタートさせた。また同年には工業用ゴム製品の製造もスタートしている。そして翌年の1962年、「月星ゴム株式会社」に社名を変更した。
さらなる輸出伸長と総理大臣賞受賞
1960年代に入ると、アメリカやカナダ、アフリカ、ヨーロッパ各国に輸出を実施し、年間1000万足を突破。とくにアメリカでは圧倒的な支持を受け、布靴「ミスタースニーカー」は全米に布靴ブームを巻き起こした。これら輸出振興の功労が認められ、1963年ゴム事業体として初の総理大臣賞が授与された。
1964年に3代倉田雲平が代表取締役社長(4代目社長)に就任した。翌年、通産大臣より「輸出貢献企業認定証」を授受。1966年にはインジェクション製品の第一号「α:ジュニアレイネット」の生産を開始する。この製法で生産される商品は優れたフィット性とクッション性を持つことから、海外では「靴下に底をつけた靴」とも呼ばれ、現在でも同社のコンフォートシューズなどに使用される技術が確立した。
月星化成株式会社~工業用品部門への進出
1971年、倉田九平が代表取締役社長(5代目社長)に就任。月星安全コーティング(化成品)の販売を開始する。1972年には「月星化成株式会社」と社名を変更。同年に、ラバーインジェクションによるキャンバスシューズ製造技術が確立した。1973年、韓国に信興化学株式会社を設立、創業100周年記念式典を挙行した。さらに同年、紳士靴のロングセラー「ミスターブラウン」が発売になり、また時代に先駆け子どもの足の成長を考えた機能性ベビーシューズとして「チロリアンベビー」を発売した。
海外シューズブランドの導入。ジャガーΣを発売
1977年に倉田良平が6代目社長に就任。その後、3代倉田雲平が7代目社長として引き継ぐ。
1970年代後半から80年代にかけて海外シューズブランドの導入を積極的に実施。1977年に「ニューバランス」、1981年に「コンバース」と「トムマッキャン」とのブランドライセンス契約を締結(現在は終了)。スポーツシューズを始めとする海外ブランドブームの到来となる。1980年には超軽量を追求したスポーツシューズ「ジャガーΣ」シリーズを発売。1985年には発売累計1000万足、1992年には3000万足を突破した。
1978年、氏家製靴を設立、中村晴一が8代目社長に就任。1979年、村上慎一が9代目社長に。この頃から中国での技術指導を開始した。
氷上防滑ソール「スぺラン」誕生
1985年、氷上防滑ソール「スペラン」が誕生。1958年に寄贈した南極観測隊用防寒靴がそのルーツ。ムーンスター雪寒地向け商品は「防滑性能」をひとつのテーマに研究を続け、細かなガラス繊維を地面と垂直に配向する特殊なソール成型技術により氷上での高い防滑性を実現する同ソールを開発した。誕生後も、配合の改良や産学連携などを行い進化しつづけ、雪寒地向け商品としての地位を確立している。
婦人靴への挑戦
1980年代後半からムーンスターの婦人靴への挑戦が加速する。1987年に婦人デイリーシューズ「イブ」を発売。1988年にはコンフォートシューズ「スポルス」を発売、翌年に登場したレディスラインは今なお続くロングセラー商品へと成長した。
そして、1993年には創業120周年を迎え、コーポレートブランド、社名ロゴタイプを改定。本社敷地内にこれまでの歩みを展示する「つきほし歴史館」を創設した。
テフロン®加工シューズを発売
1994年、「米国デュポン社(現 ケマーズ社)」が開発した、強力な防汚機能をもつ「テフロン®加工」を施したシューズの製品化に世界で初めて成功する。“汚れにくく、落ちやすい”というコピーでPRした。さらに1996年にはテフロン®加工を施した革靴の商品化にも成功している。
日本人のための本格的ウォーキングシューズ「ワールドマーチ」の躍進
数多くのウォーカーの足元を支えてきたウォーキングシューズ「ワールドマーチ」。その開発は、海外ブランドのウォーキングシューズが日本に上陸し席巻する1984年、「日本人の足に合わないシューズが原因で歩きを楽しめないとしたら…。日本人のためのウォーキングシューズを作らねば」という1人の技術者の想いからはじまった。
日本人の「歩き」のメカニズムを徹底的に検証。「ウォーキングセーバー理論」を確立させ、仕上げ段階では日本歩け歩け協会(現日本ウオーキング協会)によるモニター協力を得て延べ5万㎞にも及ぶ歩行検証を行い、1987年ついに日本人のための本格的ウォーキングシューズ「ワールドマーチ」が完成する。
妥協することのない開発姿勢と技術力はたくさんのユーザーから評価され、1997年には日本歩け歩け協会の公認シューズ第一号として認定される。さらに、「平成の道唐使(1995年、1997年)」「伊能ウオーク(1999~2000年)」「アメリカ横断ウオーク2001(2001年)」等のオフィシャルシューズに選ばれ、多くのウォーキング愛好者の足元を支えた。
そして、2016年にはワールドマーチのハイエンドモデル「プライド」がグッドデザイン賞を取得。「機能面の充実とデザインの軽やかさが良くバランスされている」として高く評価された。